阪神大震災の記憶〜20年の時の流れに想う。

 [脳・健康・食・DIET] 講座(号外) 


20年前の今日、西宮の自宅で阪神大震災に遭遇。九死に一生を得たのは大学生だった娘のおかげ。大学は住まいの裏の橋を渡れば校門。通学するまでの間、住まいの近くのコンビニでバイトしていた娘。


その日の寒い早朝から出勤準備。軽食を作る台所の音。その音を聞きながら、寒い中、大変だなと布団の中で思っていた瞬間。激しい揺れに身体が宙に浮く。覚醒なく熟睡していたら、一体どうなっていたか。


立ち上がり部屋を出る。「ギャーあ!」と叫ぶ娘の悲鳴。暗闇の中、洗面所に行くと、棚が倒れ、その下で泣く娘。夢中で救い出し、居間へ。別室にいた高校生の息子は炬燵の中に滑り込んでいた。約500冊の本棚は横に倒れている。食器棚の皿などは、反対の壁まで飛び出し割れている。直撃されていたら即死。


激震が終わり、暗闇の空を見る。すると大阪の空から神戸の空に「赤い雲」が一直線に伸びていた。今まで見たこともない不気味な雲。芦屋と神戸の方を見ると、あちこちで焚火のような火が見える。その時、大変な事態が起きていることを悟った。


翌朝、道に出ると、知り合いの老婆が立ちすくんでいる。家の中に入れない状態とのこと。息子と隣の大学生の青年と3人で、その家に行く。6畳の幅の一対の箪笥が倒れていた。衣服は入ったまま。3人は息を整え、一気に力。見事に箪笥を立てた。火事場のバカ力のなせる技。人間に宿る未知の力を実感。


電気、水道、ガスもない生活。避難所は先着順で入れない。余震の中、「死にたくない!」と叫ぶ息子。トイレの水を確保するために、山に入り水くみをする息子、近所の家にも配る。何の支援もない在宅被災者。飲料水がない状態。このままではダメだと感じる。数日後、脱出を決意。


妻、娘、息子は、京都市内の知人の家へ車で脱出することに。私は福岡の仕事場に行くことにした。しかし、新幹線は動いていない。航空しかない。チケットが取れない。その時、東京に転勤していた某航空会社のパイロットに依頼。彼の家族とは長い家族付き合い。快く引き受けてもらった。本当に感謝、感謝。


阪急西宮駅に全員で行く途中に、阪神高速道路が横倒しになり、通路を塞いでいる。多くの橋は破壊。和風民家はほぼすべて崩壊。家の柱が屋根の上に乗っている。道のあちこちは亀裂と波状に歪んでいる。別れ際に息子に「2人を頼む」と叫ぶ。高校生の息子が頷いた。一安心。


早朝に出かけたのに、京都に着いたのは夜だったという。道なき道を探し辿りついたとのこと。伊丹空港へ行く阪急電車の駅に降りると、バスの運行が震災前と同じで、動いていない。カバンを引きずりながら、集団で空港への長い道のりを歩く。臨機応変に対処しない阪急バスに怒りを覚える。やっと伊丹空港に着き、久しぶりに昼食を食べる。しかし、その直後に激しい下痢。身体は食べ物を受け入れる準備が出来ていなかった。それは激しいストレスが原因。


その後の悲惨さは語るに及ばない。西宮市からの見舞いの支援物資は、2人の子供へ「社名入りの鉛筆一本ずつ」。有難く頂く。


今でも怒りを覚えることがある。近くの伊丹市陸上自衛隊が駐屯していながら、直後に出動していない。超法規的な指揮権を発動しなかった村山首相の大怠慢である。もしも当日、自衛隊の初動があれば、どれほどの命が救えたことか。無念だ。自衛隊のトップは、最高司令官の首相の支援命令が無かったことに抗議して、その後、辞任。侍である。「知事の要請がなかったら」と事後に首相は弁解。緊急事態に対応できない最高司令官を擁していた国民の悲劇。東日本大震災原発事故という大災害の時は、菅首相。何で大災害の時に限って、無能なリーダが、と思うのは私だけか?


20後の今、娘は埼玉で孫娘と3人で暮らしている。息子は建築デザイナーで東京で一人暮らし。妻は夙川駅近くでブティックの仕事。私は今年3月で37年目になる仕事を福岡市天神で営んでいる。20年の時の流れの速さを痛感。


喜寿を迎えて今思うことは「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛和尚)と、悟っている。